2つ目の映画はもちろんシン・エヴァンゲリオン劇場版
アニメワールドの前にどうしても見ておきたかったんで、
これは必修クエストでした。
巷では結末というか、どういう流れかを書くことは、
全てネタバレとして扱われるので、書きにくいことでもあるんですけど、
以下ネタバレ含みます。
25年前の最終回と、まごころを君にと、今回の終わり方を見て、
基本的には全部同じ終わり方なんです。
なんですけど、
物語の視点というか、誰の物語の中にいるのか、
誰の感情に沿って物語が進んでいるのかというところが、
3つとも少しずつ違うんですよね。
TV版の最終回は完全にシンジ君の物語だったのが、
まごころを君にで、地球観念での終わり方になった。
もちろんその流れはシンジ君に寄り添っていたけど、
終り方としては、釈然としないというか、伏線回収しきれていなかった。
ま、それがいいと言えばいいんですけどね。
今回は全く違う路線(Willeという第3勢力=観客?)から伏線のほぼ全てを回収し、
TV版と、まごこころを君にの両方を踏襲してました。
その結果の結末だったんですけど、
それが碇ゲンドウの物語に変わったんですね。
いや、俺にはそう思えたんです。
最後ユイを背中から抱く13号機とか、
まごころを君にの時の弱いゲンドウと比べたら、
全く違う父親像というか、旦那像。
ただユイの影に囚われるだけではなく、
能動的に愛した感じがとっても、よく出ていて、
3つとも見た人には感慨深かったのではと感じ入りました。
シンジ君が本当に父親のそういう弱さや影の部分を見たかったかはわかりませんが、
見に行ったお客さんはあの終わり方をされたら黙って納得するでしょう。
でも、25、6年前に監督の庵野さんが考えていたラストとは少し違う形なんだろうなとは思いました。
監督の成長というか、過ごした4半世紀が、エヴァの物語の視点や、
物語を考える視点を変えたのかもしれませんね。
4半世紀には阪神、東日本、新潟、熊本他の震災や、豪雨の災害や新種のウィルス。
人の力では抗いきれないたくさんのことが起きました。
そういったものが作品の端々から垣間見えるのが芸術だなと思います。
エヴァンゲリオンは今回フィーネという題名がついていますが、
イタリア語でフィーネは終わり。
音楽記号にすると
:‖
これは終止の形でもありますが、本来はリピート記号です。
反対向きのリピート記号に戻るんです。
もし反対向きのリピート記号がない場合は、
一度だけ最初に戻り終始する。を意味するんです。
つまり・・・
アニメワールド(仮)も近づいてまいりまして、
連日『残酷な天使のテーゼ』も歌っていますが、
映画を見てから、歌詞の全てがシンジ君ではなく、
父親ゲンドウのストーリーに見えるようになりました。
少年よ神話になれ
私だけをただ見つめて微笑んでいるあなた
いつか気付くでしょうその背中には遥か未来目指すための羽がある
思い出を裏切るなら
ずっと眠ってる私の愛のゆりかご
細い首筋を月明かりに照らして
世界中の時を止めて
私はそう自由を知るためのバイブル
ここで出る、「私」はユイさんなんですよね。
今の僕にとってはですよ!笑
物語の伏線は時が長くなれば長くなるほど、
その人の人生に大きく影響してきますね。
本当にそれを実感できる、濃密な時間でした。
一つの物語を少しずつ違う形でリバイバルしていく。
それも同じ監督が。
そんな作品、後にも先にももう生まれてこないでしょう。
だからアニメってすごく楽しいんですよね。
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